荻野吟子(女医)の経歴とキリスト教との関係は?家族構成と子孫も!

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皆様こんにちは!

荻野吟子さんとい方をご存じでしょうか?

荻野さんは日本で初の女医になったといわれ、最初は雑学的な感覚で新しいことを知ったなといった感じでしたが、最初の女医さんということで、その経歴は如何なるものか医者になるのにどれほどの辛苦かあったのか、

男性医師であればたくさんいるでしょうが、女性となるとそうそう簡単なことです。

そして荻野さんは医師になったあと、キリスト教に入りクリスチャンとしての活動をしていきます。医師になった吟子さんがキリスト教に入信した理由も気になりますね。

今回は「荻野吟子(キリスト教徒)プロフィールや経歴は?家族構成と子孫は?」と題してお送りさせていただきます。

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荻野吟子のプロフィールは?

本名 荻野ぎん
生年月日 嘉永4年3月3日(1851年4月4日)
出身地 武蔵国幡羅郡俵瀬村(むさしこくはたらぐんたわらせむら)
※現在の埼玉県熊谷市俵瀬
死没 1913年6月23日
職業 医師
家族構成 9人家族
父母・豪農荻野綾三郎・かよ
長女・その、長男・保坪、次女・きく
三女・まさ、四女・友子、五女・ぎん、次男・益平

当時の医師としてスタートするには、医術開業試験というものに合格しなければならず、荻野さんは1885年に女性で初めて合格されたんですね!

日本公許登録女医第一号という偉業を成し遂げ、本郷区湯島三組町に荻野医院を開業します。

女性最初の医師ということですが、他にも医師を目指していた方はいらっしゃったのでしょうか?

荻野さん生涯は映画「一粒の麦」でも紹介されております。

なぜ注目されのかというと当時の時代は

  • 女性よりも男性が優位な社会
  • 女性の医師は認められていない
  • 男性は仕事、女性は家事

という社会に生まれたので、医師になるだけでも大変な中で、女性の地位を上げるためにも婦人解放運動の先駆者としての姿があるのです。

女性の差別問題に苦しみ、また困難を通過した人物でもあります。

そんな時代を通過した荻野さんの経歴についてですが、一旦医師を目指すに至った経緯までを見ていきたいと思います。

 

荻野吟子(一粒の麦)の経歴は?

荻野吟子の誕生

荻野吟子さんは、代々苗字帯刀を許された明主・荻野綾三郎と嘉与さんの5女として生を受けました。

利根川べりにあった荻野家は、とても名家で豊かでした。

ぎんは不自由なく育てられ、学問好きな子としてすくすく成長していきます。

その才能は早くから目覚ましいものがあり、近くの漢学者で医者の松方万年に漢文学を学んでいました。

荻野吟子の結婚から離婚

ぎんは16歳のときに、熊谷在上川上村の稲村家長男の稲村貫一郎に嫁いでいきます。

稲村家は北埼玉でも指折りの大家だったそうです。

あるとき、ぎんは夫から淋病をうつされてしまい、実家に戻ります。

当時はペニシリンが見つかっていなかったため
淋病は不治の「業病」で発熱と激しい痛みを伴うものだったのです

しかも当時は明治初年で妻が実家に帰るということは考えられず、世間の目を気にしながら生活を強いられることになってしまいます。

ここからぎんは一日中部屋の中に籠っていなければならない生活が続きます。

医者の松方万年は娘の萩江を話し相手に紹介します。萩江は漢文や茶に華道、和裁に嗜んでいました。

この萩江さんと過ごしているうちに、ぎんは自分自身の才能を伸ばすことに目を向け、嫁いで2年、1970年に離婚に至ります。

 

医師を目指す

1870年12月にぎんは松方万年さんの紹介もあり、東京下谷の順天堂医院に入試ます。

ここで西洋医学の権威である佐藤尚中の治療を受けるためであった。

しかし、男性に対して女性の恥部をさらさなければならないことに屈辱の日々を過ごしていました。

ここで女医になることを決意するのであります。

同じく入院している同病の女性たちがいることを知り、男性の医者に診断されることを恐れるあまり病気が悪化して命を絶つ者もいたりと、誰かがこうした女性たちの救済者となって立たねばならぬという思いを抱いていました。

しかしながら医師になるには限られた道しかなく、西洋医学となると道はかなり狭い門でありました。

医学所は、東京、長崎、千葉の3か所です。

中でも東京の医学所は東京大学医学部の前身で、西洋医学としては最も大きいとはいったものの、まだまだ漢方医学が先んじていた中心的でありました。

官立であろうと私塾でも、一人前の医師になることは大変なだけなく、女性の入学も許されませんでした。

世間からの非難だけでなく、家族からの反対がありましたが、ぎんは女性医師になる夢を諦めることはありませんでした。

学問に励む

ぎんは松方万年さんに相談して、医師を目指す前に学問を習い知識を身につけるのはどうかと勧められます。

そして松方万年さんの紹介によって、東京でも五指に入る国学者の井上頼圀(いのうえよりくに)の私塾に通うことになります。

もともと学問の才能があったためか、半年で他の塾生を抜き弟子となります。

容姿端麗で知的な女性ということで、東京の国学者の中でも評判になっていきます。

その後、ぎんは女性教育者としての名のある、内藤塾の内藤満寿子から訪問を受け、内藤塾の助教をお願いされるが女医の夢があるゆえに申し出を断ってしまう。

また井上頼圀から後妻になってくれないかとプロポーズされるが断り、内藤塾の助教になります。

夏の暑い日に、内藤塾にある女性が訪問してきました。

萩江でした。萩江さんはぎんに東京女子師範学校に入るように促し、入学することを決めます。

東京女子師範学校への入校を機に、ぎんは名前を「吟子」と改めます。

新しい時代を切り開くためには名前に迫力がないと考えたためでした。

5年の修業課程を経て、明治12年2月に第1期生の吟子は首席で卒業します。

卒業式の日に永井久一郎教授からの卒業後の進路を尋ねられて、正直に女医になりたい思いを伝えます。

永井教授は当時の医学会の有力者である石黒忠悳を紹介されます。医学校は女人禁制でしたが、石黒の後押しもあってか吟子さんは好寿院に入り医学を学ぶことになります。

明治12年から好寿院に入学して3年目に吟子は卒業して、なおかつ吟子さんの成績は群を抜いていました。

日本公許登録女医第一号

好寿院を卒業してからは、家庭教師のアルバイトをしながら、医術開業試験を受ける準備をしていきます。

医師免許規制というものがあり、新規の医者になるためには政府の医術開業試験を受けて通らなければならなかった。

他にも例外はあるようだが、吟子さんの場合は私塾をでているので、医術開業試験を受けねばならなかった。

しかし、やはり女子が受けることは許されておらず、願書を提出しても却下されていた。

試験は春と夏に行われるが、東京で2度出願を却下され、出身の埼玉でも同じく却下でした。

上の機関である内務省に直接願書を送るも、吟子さんの働きかけもむなしく却下されてしまう。

どうしたら良いものかと悩んでいるときに、実家から手紙が届くが、母かよの危篤の知らせでありました。

吟子さんは急いで実家に戻るも、母の死には間に合うことはできませんでした。

自分の道はこれでよいのだろうかと、間違っていたのではないかと考えこみますが、もう一度強く自分自身にい聞かせます。

東京に戻ると、石黒忠悳のもとを訪れて、医術開業試験についての相談をします。石黒は当時の衛生局長であった長与専斎(ながよせんさい)に話をし、長年難攻不落であった女性の開業医試験を許す旨の布達が正式になされたのです!

吟子は明治18年に政府公許の女医第一号となり、本郷三組町に産婦人科萩野医院を開業します。

キリスト教へ

医院を開業する吟子であったが、診療活動をしていく中で、医者の力では及ばない領域があることに気づきます。

貧困、社会制度、慣習といった根本的な問題です。

吟子は医者という職業に限界を感じ、キリスト教に通い始めます。

そして「私立大日本婦人衛生会(婦人衛生会)」を設立して、矯風会に入会し社会活動をしていきます。

婦人解放のための主張を展開していきます。

 

荻野吟子の家族構成と子孫は?

荻野吟子さんは9人家族の5女で、医師としてキリスト教徒として多彩な活動をしていく中で、熊本出身のクリスチャン「志方之善」と結婚します。

しかし、2人の間に子どもを授かったという内容は見られませんでした。

養女の「竹ノ谷トミ」さんと20年過ごしています。

 

 

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